2011年09月13日
札所のご紹介
心洗ツーⅢでお寺の紹介文を入れてみましたが今まで廻ってきたお寺の紹介はしてませんでしたね
なのでここでまとめて書いときます。
第二十六番札所 如意山 乙宝寺 (真言宗 智山派)
ご本尊 如意輪観世音菩薩
奈良時代天平八年創建。
聖武天皇の勅命により行基婆羅門両高僧建立。行基は大日三尊を刻み、婆羅門は釈尊左眼舎利を安置した。右眼を納めた寺を甲寺を呼ぶのに対して、左眼を納めた寺を乙寺と名づけたという。住古は乙(きのと)寺と称した。きのとの大日様とも呼ぶ。
十万石の格式と一山に千の僧坊をかまえた霊場寺院として知られた。七堂伽藍が完備し、文化財の宝庫と共に天平の風情を今にとどめている。
観音堂は江戸中期境内地桜園にあった。松尾芭蕉も奥の細道で参拝し、観音堂登り口に句碑がある。
うらやまし浮世の北の山桜。
第二十七番札所 遍照山 光浄寺 (曹洞宗)
ご本尊 十一面観世音菩薩
弘治二年徹禅師が郷清水の水底から光を発して現われた十一面観世音を本尊として安置したのが、寺の始まりという。
その後、万治元年この観世音を信仰していた村人が西国巡礼に旅立った。ところが道中持病が起きて大変苦しんだ。そこで、観音のご加護を念じていると、一人に老僧が現れて「汝の信心浅からざるによって、その苦しみを救うべし」と持っていた瓶の水を注いだかと思うと、病はすっかり治ってしまった。そして老僧が、自ら杖を作って与え消え失せた。
老僧が杖を作るとき、小指を傷つけたが、今も観音の小指に傷跡が残っている。
第二十八番札所 岩井山 白蓮寺 (曹洞宗)
ご本尊 十一面観世音菩薩
人皇十一代平城天皇の御代、大同二年、慈覚大師が仏教弘道の使命を帯びて聖徳太子御作の十一面観世音菩薩の尊像を捧持して当国へ御来錫された。その時大師は奇巖怪石重畳たる岩井戸山に登り、恭しく尊像を奉安して護摩迦業をされ観音夢想に依り当地の開された。
或る夜白衣の乙女が白蓮を慈覚大師に授け、消えるが如く飛び去ったので大師は岩井戸山を霊地と定め、四十間四方の浄地を境内をなし、大悲十一面観世音菩薩の尊像を安置して岩井戸山白蓮寺の草創としたのである。
第二十九番札所 聖籠山 宝積院 (真言宗 智山派)
ご本尊 十一面観世音菩薩
ご本尊十一面観世音菩薩並みに二王尊は秦澄大徳の御作であります。
昔、天智天皇の頃百合若大臣と言われた武勇比類のない壮士が当山の洞から鷹をとり緑丸と名付けて可愛がっていた。
聖武天皇の天平九年泰澄大徳が当地に来て緑丸の菩薩供養の為にこの三尊を彫刻し、平城天皇の大同元年に堂を建立し聖籠山と名付けました。
慶長十三年新発田藩主溝口秀勝公は信仰厚く観音堂並みに仁王門を再建し、永く国家鎮護、心願成就の道場とした。
第三十三番札所 明白山 最明寺 (真言宗 智山派)
ご本尊 千手観世音菩薩
天平年間の開基で法相宗の深諦法師が行基菩薩御作の千手観世音を安置して開創した寺である。
七百年前の康元年中、北条時頼諸国行脚の際、当地に立ち寄った因縁に依り、寺号を許され千手院を最明寺に改め、真言宗に改宗した。
正保二年に寺が全焼し、古い記録が焼失したのは残念であるが千手観音像(御丈三尺七寸)は難を逃れて現在に至っている。
仁王門は明治三年に建造、本堂と観音堂は明治二十七年の火災後建立されたものである。
延宝四年に京都智積院の末寺となり、真言宗智山派に属している。
以上でございます<(_ _)>
なのでここでまとめて書いときます。
第二十六番札所 如意山 乙宝寺 (真言宗 智山派)
ご本尊 如意輪観世音菩薩
奈良時代天平八年創建。
聖武天皇の勅命により行基婆羅門両高僧建立。行基は大日三尊を刻み、婆羅門は釈尊左眼舎利を安置した。右眼を納めた寺を甲寺を呼ぶのに対して、左眼を納めた寺を乙寺と名づけたという。住古は乙(きのと)寺と称した。きのとの大日様とも呼ぶ。
十万石の格式と一山に千の僧坊をかまえた霊場寺院として知られた。七堂伽藍が完備し、文化財の宝庫と共に天平の風情を今にとどめている。
観音堂は江戸中期境内地桜園にあった。松尾芭蕉も奥の細道で参拝し、観音堂登り口に句碑がある。
うらやまし浮世の北の山桜。
第二十七番札所 遍照山 光浄寺 (曹洞宗)
ご本尊 十一面観世音菩薩
弘治二年徹禅師が郷清水の水底から光を発して現われた十一面観世音を本尊として安置したのが、寺の始まりという。
その後、万治元年この観世音を信仰していた村人が西国巡礼に旅立った。ところが道中持病が起きて大変苦しんだ。そこで、観音のご加護を念じていると、一人に老僧が現れて「汝の信心浅からざるによって、その苦しみを救うべし」と持っていた瓶の水を注いだかと思うと、病はすっかり治ってしまった。そして老僧が、自ら杖を作って与え消え失せた。
老僧が杖を作るとき、小指を傷つけたが、今も観音の小指に傷跡が残っている。
第二十八番札所 岩井山 白蓮寺 (曹洞宗)
ご本尊 十一面観世音菩薩
人皇十一代平城天皇の御代、大同二年、慈覚大師が仏教弘道の使命を帯びて聖徳太子御作の十一面観世音菩薩の尊像を捧持して当国へ御来錫された。その時大師は奇巖怪石重畳たる岩井戸山に登り、恭しく尊像を奉安して護摩迦業をされ観音夢想に依り当地の開された。
或る夜白衣の乙女が白蓮を慈覚大師に授け、消えるが如く飛び去ったので大師は岩井戸山を霊地と定め、四十間四方の浄地を境内をなし、大悲十一面観世音菩薩の尊像を安置して岩井戸山白蓮寺の草創としたのである。
第二十九番札所 聖籠山 宝積院 (真言宗 智山派)
ご本尊 十一面観世音菩薩
ご本尊十一面観世音菩薩並みに二王尊は秦澄大徳の御作であります。
昔、天智天皇の頃百合若大臣と言われた武勇比類のない壮士が当山の洞から鷹をとり緑丸と名付けて可愛がっていた。
聖武天皇の天平九年泰澄大徳が当地に来て緑丸の菩薩供養の為にこの三尊を彫刻し、平城天皇の大同元年に堂を建立し聖籠山と名付けました。
慶長十三年新発田藩主溝口秀勝公は信仰厚く観音堂並みに仁王門を再建し、永く国家鎮護、心願成就の道場とした。
第三十三番札所 明白山 最明寺 (真言宗 智山派)
ご本尊 千手観世音菩薩
天平年間の開基で法相宗の深諦法師が行基菩薩御作の千手観世音を安置して開創した寺である。
七百年前の康元年中、北条時頼諸国行脚の際、当地に立ち寄った因縁に依り、寺号を許され千手院を最明寺に改め、真言宗に改宗した。
正保二年に寺が全焼し、古い記録が焼失したのは残念であるが千手観音像(御丈三尺七寸)は難を逃れて現在に至っている。
仁王門は明治三年に建造、本堂と観音堂は明治二十七年の火災後建立されたものである。
延宝四年に京都智積院の末寺となり、真言宗智山派に属している。
以上でございます<(_ _)>
Posted by シャムきち at 22:14│Comments(3)
│三十三観音札所ツー
この記事へのコメント
こんな面倒な漢字よく覚えたね。
てか、どこかのパクリだろw
てか、どこかのパクリだろw
Posted by tomzu at 2011年09月13日 22:41
TOMZUさんへ
こんにちは( ^ ^ )/
越後三十三観音詳細地図から抜粋です。
断じてパクリじゃないんだから~ヽ(*´∀`)ノチガウチガウ
ちなみによく理解してないし読めない感じのオンパレードでした(汗
こんにちは( ^ ^ )/
越後三十三観音詳細地図から抜粋です。
断じてパクリじゃないんだから~ヽ(*´∀`)ノチガウチガウ
ちなみによく理解してないし読めない感じのオンパレードでした(汗
Posted by シャムきち at 2011年09月13日 22:54
>感じ
じゃなくて『漢字』でした。
訂正しま~す(/ω\)イヤン
じゃなくて『漢字』でした。
訂正しま~す(/ω\)イヤン
Posted by シャムきち at 2011年09月13日 22:56