2019年04月13日
地元『新発田』を歩く(19)
新発田市の寺町にある法華寺。

こちらには新発田の英雄であるとある人物が眠っています。

新発田藩士 井上久助(いのうえきゅうすけ)の墓碑
wikiから説明を拝借。
こちらには新発田の英雄であるとある人物が眠っています。
新発田藩士 井上久助(いのうえきゅうすけ)の墓碑
wikiから説明を拝借。
人物
父、八左衛門正実は若狭国高浜城の溝口秀勝に仕官し、戦場を馳駆した功臣であった。新発田藩時代は700石を賜り、在中の役目を果たしていた。その後、久助が5歳の頃に病で亡くなった。秀勝はこれを深く悼み、まだ幼かった久助に跡目を継がせ、その郎党すべての面倒をみた。これにより久助はその恩義を忘れなかった。
塩止事件
明暦末年から万治にかけて、会津領よりろうそくを、新発田領より塩を送るのが恒例としていた。御用商人の手による物々交換であった。ところがろうそくの輸送が突然途絶えたため、新発田側も塩の送出しを中止した。これよりさき新発田では「御在所にて蝋燭よろしく出来候につき...」という藩の記録があり、塩との価格不均衡が生じ、その交渉中にろうそくを止められ、相対して塩荷も止めたものと思われる。いずれにせよ御用商人の問題であった。
しかしこのことは会津藩を刺激した。「塩は領民の生死に関わり、また重要なる兵糧である。塩止めは敵対行為である。新発田藩主はいかなる意図ありや」と詰問状を送り、間罪使を派遣して強硬談判に及び、さらに幕府に訴え出た。親藩である会津藩は、当時の会津藩主保科正之は徳川家光の異母弟であり、23万石の東北を鎮撫する誇りがあった。対する外様5万石の小藩の新発田藩が対抗して塩を止めたことは、会津側にとってはその誇りを傷つけられたものであった。 当時の幕府の大名廃絶政策はかなり熾烈であり、外様小藩の新発田にとっては存亡の危機であった。この時「拙者に存念がござる」と井上久助が名乗り出た。久助の身に全く関わりのないことであるが、自ら塩横領の犯人と名乗り、会津に出頭した。町人の中村墨五郎を帯同して行ったが、横領の事実を証言させるためであったとされる。久助は塩止めは欲に駆られた自分一個の所業であり、藩主溝口宣直以下何人もまったく与り知らぬことであると強弁し、ついには抱烙の刑(熱した銅版を渡る拷問)にも耐えた。久助は熱板の上を渡りつつ、謡曲「杜若」の一節を謡い、渡り終わるやばったりと倒れて無言であったという。結局、久助一人の罪とされ、中村墨五郎は許されて帰国した。その後、万治3年(1660年)10月10日、久助は会津藩と新発田藩の藩境(新発田市山内)の番所付近で、会津藩により斬刑に処せられた。
塩止事件により窮地に立たされた新発田藩をその命を捧げて救った英雄です。
街角コンパスによると会津藩士も井上久助が犯人ではないのは知っていたが本当の犯人を調べる為、そして藩としてのメンツの為に仕方なく炮烙の刑に処し、そしてそこで見せた姿は会津藩士の胸を打ち「これぞ真の武士である」と言わしめたそうです。
こちらのお墓では遺髪・遺爪が埋葬されているそうです。

窪田平兵衛武文(くぼたへいべえたけふみ)の墓碑
新発田藩の家老の家に生まれ12代目藩主溝口直正公の信任厚く激動の京都に赴任。
京都では情報収集に朝廷・薩長との交渉などをこなしながら戊辰戦争で新発田藩が取るべき道筋を模索。
このおかげで一度は奥羽越列藩藩同盟に参加した新発田藩がすぐに官軍の新政府軍に加担する事が出来た。
時代の先行きを読み、判断するのは恐ろしかったでしょうね。

丹羽伯弘(にわはっこう)の墓碑
8代目新発田藩主溝口直養に仕え学問を広めた人物。
溝口直養公は数ある学問から「朱子学」のみを認め、越後では一番早く藩校となる講堂(のちの道学堂)を建て武士のみならず庶民にも講義を受ける許可を許すなど当時をしては画期的な取り組みをした。
丹羽伯弘は積善堂を建て、そこで「学問は自己の名声にあらず、先人の知恵を知り、人の道を説くものなり」と説き教育の基盤を作った。
その翌年、丹羽の優れた学力が認められ道学堂の講師にしたいと直養公は江戸へ留学させた。
しかし江戸滞在中に新発田藩が認めていない「異学派」に事前許可なく入門した事で藩校の教授らに強く指弾され永に新発田藩士としての身分を失った。
その後、江戸から帰国した丹羽は自宅の敷地内に「学半楼」を建て52歳で亡くなる最後まで門徒に教育を行った。
そしてその門下からはたくさんの偉人が輩出されたのである。
教育者ならばなおの事、沢山の勉学に触れたくなるのは仕方がない事ですよね。
事前許可さえとっていればとも思いますがそれが難しいと判断したんでしょうね、多分。

堀部安兵衛の母の墓碑
言わずと知れた赤穂浪士の一角である堀部安兵衛のお母さんのお墓です。
う~ん、歴史にはドラマが埋まってますね~(*´ω`*)
父、八左衛門正実は若狭国高浜城の溝口秀勝に仕官し、戦場を馳駆した功臣であった。新発田藩時代は700石を賜り、在中の役目を果たしていた。その後、久助が5歳の頃に病で亡くなった。秀勝はこれを深く悼み、まだ幼かった久助に跡目を継がせ、その郎党すべての面倒をみた。これにより久助はその恩義を忘れなかった。
塩止事件
明暦末年から万治にかけて、会津領よりろうそくを、新発田領より塩を送るのが恒例としていた。御用商人の手による物々交換であった。ところがろうそくの輸送が突然途絶えたため、新発田側も塩の送出しを中止した。これよりさき新発田では「御在所にて蝋燭よろしく出来候につき...」という藩の記録があり、塩との価格不均衡が生じ、その交渉中にろうそくを止められ、相対して塩荷も止めたものと思われる。いずれにせよ御用商人の問題であった。
しかしこのことは会津藩を刺激した。「塩は領民の生死に関わり、また重要なる兵糧である。塩止めは敵対行為である。新発田藩主はいかなる意図ありや」と詰問状を送り、間罪使を派遣して強硬談判に及び、さらに幕府に訴え出た。親藩である会津藩は、当時の会津藩主保科正之は徳川家光の異母弟であり、23万石の東北を鎮撫する誇りがあった。対する外様5万石の小藩の新発田藩が対抗して塩を止めたことは、会津側にとってはその誇りを傷つけられたものであった。 当時の幕府の大名廃絶政策はかなり熾烈であり、外様小藩の新発田にとっては存亡の危機であった。この時「拙者に存念がござる」と井上久助が名乗り出た。久助の身に全く関わりのないことであるが、自ら塩横領の犯人と名乗り、会津に出頭した。町人の中村墨五郎を帯同して行ったが、横領の事実を証言させるためであったとされる。久助は塩止めは欲に駆られた自分一個の所業であり、藩主溝口宣直以下何人もまったく与り知らぬことであると強弁し、ついには抱烙の刑(熱した銅版を渡る拷問)にも耐えた。久助は熱板の上を渡りつつ、謡曲「杜若」の一節を謡い、渡り終わるやばったりと倒れて無言であったという。結局、久助一人の罪とされ、中村墨五郎は許されて帰国した。その後、万治3年(1660年)10月10日、久助は会津藩と新発田藩の藩境(新発田市山内)の番所付近で、会津藩により斬刑に処せられた。
塩止事件により窮地に立たされた新発田藩をその命を捧げて救った英雄です。
街角コンパスによると会津藩士も井上久助が犯人ではないのは知っていたが本当の犯人を調べる為、そして藩としてのメンツの為に仕方なく炮烙の刑に処し、そしてそこで見せた姿は会津藩士の胸を打ち「これぞ真の武士である」と言わしめたそうです。
こちらのお墓では遺髪・遺爪が埋葬されているそうです。
窪田平兵衛武文(くぼたへいべえたけふみ)の墓碑
新発田藩の家老の家に生まれ12代目藩主溝口直正公の信任厚く激動の京都に赴任。
京都では情報収集に朝廷・薩長との交渉などをこなしながら戊辰戦争で新発田藩が取るべき道筋を模索。
このおかげで一度は奥羽越列藩藩同盟に参加した新発田藩がすぐに官軍の新政府軍に加担する事が出来た。
時代の先行きを読み、判断するのは恐ろしかったでしょうね。
丹羽伯弘(にわはっこう)の墓碑
8代目新発田藩主溝口直養に仕え学問を広めた人物。
溝口直養公は数ある学問から「朱子学」のみを認め、越後では一番早く藩校となる講堂(のちの道学堂)を建て武士のみならず庶民にも講義を受ける許可を許すなど当時をしては画期的な取り組みをした。
丹羽伯弘は積善堂を建て、そこで「学問は自己の名声にあらず、先人の知恵を知り、人の道を説くものなり」と説き教育の基盤を作った。
その翌年、丹羽の優れた学力が認められ道学堂の講師にしたいと直養公は江戸へ留学させた。
しかし江戸滞在中に新発田藩が認めていない「異学派」に事前許可なく入門した事で藩校の教授らに強く指弾され永に新発田藩士としての身分を失った。
その後、江戸から帰国した丹羽は自宅の敷地内に「学半楼」を建て52歳で亡くなる最後まで門徒に教育を行った。
そしてその門下からはたくさんの偉人が輩出されたのである。
教育者ならばなおの事、沢山の勉学に触れたくなるのは仕方がない事ですよね。
事前許可さえとっていればとも思いますがそれが難しいと判断したんでしょうね、多分。
堀部安兵衛の母の墓碑
言わずと知れた赤穂浪士の一角である堀部安兵衛のお母さんのお墓です。
う~ん、歴史にはドラマが埋まってますね~(*´ω`*)
Posted by シャムきち at 07:00│Comments(0)
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